校友から学ぶ 75号

校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第75号 一人一切人 一切人一人

2012年9月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです

融通念佛宗管長 総本山大念佛寺第66世法主
倍巌 良舜

倍巌良舜(ばいがん・りょうしゅん)=22年(大正11)9月、奈良法徳寺に生まれる。
県立奈良中学(旧制)を経て龍谷大学文学部史学科を44年(昭和19)に卒業。奈良県内公立高校教師で23年間勤務。現在、融通念仏宗管長、総本山大念佛寺法主、自坊の法徳寺(奈良市)では、長年の住職を経て11年(平成23)10月より、長老となる。

「好胤と倍巌」

薬師寺の高田好胤(こういん)さん(98年逝去・同年に龍谷賞)とは大の仲よしでした。彼は私より二つ年下です。私は学生時代、奈良市内の自坊(法徳寺)から龍大へ電車通学でした。奈良駅から今の近鉄に乗り京都へと。そのとき一人の若者が西大寺駅から乗車し、私を見るなり「薬師寺の高田です」と、頭をペコリと下げて挨拶してくれました。以来、好胤さんと私は、互いのお寺を行ききするようになります。私が龍大から自坊に帰ったら、好胤さんが寝ていたこともありました。私もよく薬師寺へ遊びに行き、境内で野球をしました。打った球が東塔(国宝。現在修復中)の上の屋根以上に当たるとホームラン(笑)。今では考えられないことです。

インドで好胤さん(左)と倍巌さん(『好胤と倍巌』より)

なお、好胤さんとの思い出話をこの夏に一冊の本(『好胤と倍巌』)にまとめさせていただきました。
ちなみに私は卒業後、奈良県内公立高校の教師をつとめ、奈良市立の一條高校の日本史の教員をしていたとき、今の薬師寺の山田法胤(ほういん)管主(64年文卒)や執事長の村上太胤(たいいん)さん(69年文卒)は教え子です。
話は少し脱線しましたが、龍大時代の同期生の友人の中には、ずいぶん立派なかたがいましたね。本願寺派の本照寺(大阪高槻市)の日野照正(しょうしょう)さん(旧姓・泉尾)をはじめ、京都清水寺の前貫主の松本大圓(だいえん)さん(今月8月逝去)、西山浄土宗深草派管長で龍大名誉教授の井ノ口泰淳(たいじゅん)さん、元龍大学長の千葉乘隆(じょうりゅう)さん、真如堂松林院の松田康延(こうえん)さんがたです。日野さんと千葉さんはすでにご往生され、今、元気なのは私と井ノ口さんくらいでしょうか。
龍大時代、私は馬術部に所属していたので、陸軍の深草16師団、今の深草キャンパスですね、ここへよく馬術の練習に行きました。当時、深草は軍隊の町でした。それが今、龍谷大学の学舎に。いい時代になったと、つくづくと思います。

融通念仏とは

ところで、本論の仏教の話です。
自分の称(とな)えた念仏は、他の一切の人々(衆生(しゅじょう))に行き渡り、他の一切の人々が称えた念仏は、自分のところに功徳としてもたらされるというのが、融通念仏の教えです。これは『華厳経』の「一即一切 一切即一」の教えがベースになっています。融通念仏宗の開祖・良忍(りょうにん)上人(聖応(しょうおう)大師)は平安末期の天台僧でした。比叡山での学問修行に見切りをつけられた上人は、京都大原の来迎院(らいごういん)で隠棲中の永久5年(1117)、阿弥陀如来から示現(じげん)(夢のお告げ)をいただかれます。それが、「一人一切人(いちにんいっさいにん) 一切人一人 一行(いちぎょう)一切行一切行一行 是名他力(たりきぜみょう)往生 十界一念 融通念仏 億百万遍 功徳(くどく)円満」という偈文(げもん)です。
一人が称える念仏が、他のすべての人々に功徳を及ぼし、一切の人々の念仏は一人の功徳となり、「南無阿弥陀仏」と称える一行は、ほかのすべての行(万行)に通じ、万行はこの一行におさまるため、その功徳は広大となる。念仏を唱和することにより、阿弥陀仏の救済(本願力)と、自分が称えた念仏とが互いに融通しあい、仏の国である浄土に生まれる(往生)ことができる――と良忍上人はお説きになりました。
ですから、浄土真宗の報恩感謝の念仏と違い、融通念仏宗では、できるだけ数多くお念仏を称えてほしいと、檀家さんや信徒さんがたに呼びかけています。

称名念仏を表舞台に

良忍上人は、天台声明(しょうみょう)の大家でもあります。声明とは、節をつけてお経を称え、仏さまのお徳を讃嘆(さんだん)するものです。慈覚(じかく)大師(円仁(えんにん)794~864)が中国から日本に伝え、京都大原の来迎院一帯を魚山(ぎょざん)と呼び、仏教音楽の根本道場とされました。この魚山流声明を再興されたのが、良忍上人でした。ちなみに、大原三千院の両側には呂川と律川という中国の声明にちなんで名付けられた小川が流れています。よく「ろれつがまわらない」と言いますが、もとは「呂律がまわらない」がなまったものとされています。
ともあれ、良忍上人と同じように比叡山を降りた法然上人と親鸞聖人は、やがて専修(せんじゅ)念仏(他力念仏)の道を歩まれます。親鸞聖人が洛中の六角堂に参籠し、救世観音の示現により法然上人のもとに行かれます。それは良忍上人が往生されておよそ70年後のことでした。良忍上人は称名念仏を仏教の表舞台に登場させた先駆者だったのです。

2012年(平成24)9月30日発行