「煩悩とクリエイティビティ」は、誰もが抱える「煩悩」を前向きに捉え、新しい価値創造のヒントにしていくきっかけになることを目指した連続トークイベントです。第11回を迎えた今回は、ゲストに書評家・作家としてご活躍の三宅香帆氏にお越しいただきました。まずは講演いただき、その後に本日の仏教ナビゲーターの龍谷大学理事長 入澤崇氏の2名によるトークセッションを実施し、「煩悩」と「クリエイティビティ」との関係について探求していきたいと考えています。

■三宅香帆氏 講演
いい欲望は、自分を外の世界へと導いてくれる
煩悩は消せないが、いい欲望はある
煩悩と聞くと悪いイメージが先行して、「何かが欲しい」「こうなりたい」という欲望自体がすべて否定されているように思うのですが、欲望は自分の思い通りになって欲しいという内向的なものと、外向的なものではまったく違ってきます。私は本を読むきっかけをつくりたいと思い、本を書いたり、講演でお話をさせていただいたりしています。その中で「忙しい生活において、どうやって本を読んだらいいの?」という話に触れますが、なぜか本を読みたくなる「欲望を持つ」ことが大事だと捉えてみなさんにお伝えしています。煩悩は消すことができませんが、今回の講演では、いい欲望との出会い方や使い方について、お話したいと考えています。
母娘問題と“母が嫌がる欲望”を持つ意味
日本の女性作家の作品には、母娘問題を取り上げたものが多く出版されています。私も2025年に『娘が母を殺すには』を刊行しました。母親の決めつけることを否定できず、葛藤を覚えたとき、どうしたらいいのかを深く考えるストーリーです。その本の中で、特に強調しているのは、娘が母親の嫌がるような欲望を持つことの大切さです。例えば、「この服を着ると女性らしくてキレイに見えるよ」と言われたとき、その服は好きではなく、別の服を着たいという欲望を持つ。つまり、母親の規範よりも自分の欲望が大事だと言えることなんです。親や先生の言うことに従い続けてしまうと欲望がどんどん小さくなり、自分で考えたり調べたりする気持ちが湧かない状態に繋がる可能性があります。
では、どうやって欲望を持てばいいのかと言えば、それこそ本を読んだり、自分以外のいろんなものに触れたりすることだと思います。そういう意味では私自身、欲望は良いものとプラスに捉えています。

煩悩を自分ではなく他者へ向ける
仏教の思想の中でなぜ煩悩はあるのか。個人主義と言うか、と周囲や社会のことは気にせず、自分のことしか考えられなくなるから煩悩と言われるわけですが、このことを考えるために紹介したいのが、山崎涼子さんの『日出処の天子(ひいずるころのてんし)』です。私が大好きな漫画で『娘が母を殺すには』の中でも扱っています。
これは聖徳太子が厩戸皇子(うまやどのおおじ)と呼ばれていた若かりしころ、ある男性を好きになるのです。彼には超能力があり、好きな男性と一緒にいるとその力がさらに強まるという設定です。
そこで2人で組んで完全体となり、日本をもっと大きな国にしようと目論むのですが、人の能力を超えた力を持つこと自体やるべきではないという結末を迎えます。煩悩は自分に対して向くよりも他者と繋がるために使った方がいい、つまり、自分の内側でずっと増幅していく欲望と、他者に向かう欲望の2つがあると思っています。
煩悩のもっていき方
恋愛はもちろん、家族や仕事の人間関係でも「こうして欲しいけどできない」という場面に遭遇しますよね。本を読んでいるときにも、なぜこんな考え方をするんだろうと思うことがあります。けれども私には面白いものを読みたい欲望があり、自分にはない発想に出会い、外へと連れていってくれる本を求めていたりします。一方、「自分の思い通りになってほしい」という欲望は、どうしても内側に閉じていってしまい、自分の内面を耕すことや外向きの志向には繋がらないと思うのです。自分の考えを強化するために同じ価値観の本を読み続けるのではなく、あえて違った本を選んでみる。最初はつまらなくても読み進んでいくと面白くなってくるかもしれません。他者性のある本との出会いが、良い欲望を連れてきてくれます。みなさんには「共感するためだけ」ではない本の選び方、読み方を実践してほしいと思います。特に山崎涼子さんの漫画『日出処の天子』はおすすめです(笑)。
冒頭でもお話しましたが、私は著書や講演を通じて本を読むきっかけをつくりたいと考えています。京都に住んでいることから、小説家の澤西 祐典さんと出町柳の『CAVA BOOKS』で読書会を実施したこともあります。ともすれば本を読むことは生活の中から遠のいていて、頑張ってやらなければいけないと思われがちです。けれどもいろんな個性の人と出会うように、たくさんの本と向き合いながら独創性や創造性を高めてほしいと思います。
トークセッション(三宅香帆氏×入澤崇氏)
「曖昧さ」は日本文化の特長の一つ。今の時代に大切なのは「半身(はんみ)」であること

全身全霊労働から「半身」がこれからのスタンダードに
入澤:三宅さんは、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で2025年の新書大賞を受賞されています。私にとって大変衝撃的な本でしたが、この中に「煩悩とクリエイティビティ」に関係すると思われることが書かれています。これまで仕事は、全身全霊で打ち込むことが美徳と言われ続けてきましたが、そこに問題があると指摘されています。
全身ではなく「半身」。例えば学生のみなさんは大学や家庭で、そして友人関係などいろんな顔を持っています。それを自覚しないまま手一杯になり、もがき苦しみ、「好きなことができない」「本が読めない」という自縄自縛状態に陥っている。その中で「半身で事にあたったらどうか」と提示されたことに大いに共感しました。どうやって導きだしたのですか。
三宅:半身は社会学者の上野千鶴子さんの言葉です。NHKの「100分deフェミニズム」というテレビ番組で初めて知りました。そのとき、全身全霊労働者である男性の働き方に比べて、女性は半身にならざるをえなかった。仕事と育児や家事、介護を両立する女性の働き方について話されていたのです。今は共働きが増え、男性と女性が同じくらいに働き、子育てをするなか、半身がこれからのスタンダードになるべきだと思いました。ちょうど『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の連載を始めるタイミングだったので、半身をゴールにできたらいいと考えたのです。
入澤:本を読むというのは能動的な行為ですよね。働いて本を読めないのは時間の問題もありますが、疲れてしまって本を読もうとする気持ちになれないことが大きい。だから働き方を見直す必要がありますね。
自分が得た気づきを他者に振り向ける
入澤:仏教にはプロとアマチュアがあるのです。プロの仏教はいかにして煩悩をなくしていくか、出家した人たち、すなわちプロの仏教者はこれが一番のテーマになります。しかし、私たちの生活は煩悩の上に成り立っているわけで、生活者としての仏教、すなわちアマチュアの仏教者は煩悩を抱えながら生き、煩悩をどう対処していくのかがテーマになります。
先ほどの講演で興味深かったのは、煩悩を他者に向け、いかにして自己中心的な煩悩から離れるかという点です。ちなみに自分の積み重ねた功徳を他者に振り向けることを仏教では回向(えこう)と言います。元の意味は「転換する」です。「自分中心」を「他者のため」へと転換する。三宅さんがこれまで味わったことのない作品を読み、新しい価値観に気づき、そこから得たものを他者に振り向ける。これはとても意義深いものだと思います。
三宅:確かにそうですね。他人のために生きたいと思わなくても「こんなものに出会いたい」「こんなものを見たい」という感覚が巡り巡って他人のプラスになることがあると思っています。
入澤:最近、ボランティアをやりたいという学生が増えています。最初は人のために行っていても、結局は自分が良いことをしている行為を他人に見せたいだけじゃないか。そんな悩みが生じてくると言います。
三宅:その悩みに対して、仏教ではどんな教えをされるのですか。
入澤:それこそ、自分自身で気づいていくというか、悩みを持った時点からその人の人生は始まると思うんですよ。自分の抱える闇に気づくことは成長の第一歩です。やっていることをこのまま継続してもいいか、就職に差しつかえるんじゃないかなどと葛藤を抱えるわけですが、それは決してネガティブなものではなく、自分自身を成長させるもの。どう考えて、どのような一歩を踏み出すのかというタイミングでは、私は邪魔をせずに何も言わないようにしています。本人の判断を尊重します。
空っぽの自分、「空」の状態を確保することの大切さ
三宅:ちなみに仏教の教えでは、他人のためにやったことが自分に返ってくることを何と言うのですか。

入澤:「因果応報」と言います。他人のために善行をすればその善い「業(ごう、カルマ)」が自分に良い結果として返ってくる。「善因善果」ですね。反対に悪行をはたらけば、「悪因悪果」となります。自己と他者について付言すれば、仏教では自分の身体すら自分のものではないと捉えます。誰もが年をとってゆき、病気になり、やがては命尽きます。自分自身をコントロールできないのです。私たちは自分でコントロールできないものを抱えながら生きているのです。だから自分と他者という問題でなく、既に自分の中にコントロールできない他者を抱え込んでいる。カオスな状態において自分自身を捉え直すという点が仏教の面白いところです。
三宅:確かに面白いですね。よく自己肯定感について話をすることがありますが、私は自分が読んできた本が良いものだから自分もいい人間だろうと思っていて(笑)。自分自身は読んできたもの、出会ってきたものの集積というか、データーベースという風に捉えているので、自己肯定感が気にならないのです。
入澤:仏教には「無我」という根幹となる考え方があります。先ほど触れたように自分だと思っていることは、実は自分ではない。自己中心性というものが欲望を生み出し、それに振り回されているのが私たちの姿です。私自身、学生時代に悩んでいたとき、ある先生に突然、「ドーナツで一番おいしいところはどこか」と聞かれたことがあります。戸惑っていると「ドーナツは真ん中が一番おいしい。ドーナツをドーナツたらしめているのは、真ん中が空っぽだからだ」とそのように言われたのです。その先生は龍谷大学に来られていた京都大学の名誉教授でした。それを聞いて不思議な感覚になって、いつの間にか悩みが消えました。
振り返ってみると、私は高校時代にインド人がゼロを発見したことについて語っている本を読んで仏教に関心を持ち始めました。ゼロはインドのサンスクリット語で「シューニャ」、仏教でいう「空(くう)」と言葉が同じなんです。「空」については仏教の歴史的変遷の中でさまざまな理解や解釈を生み出していますが、高校時代、ゼロないし空っぽは生きる上でとても重要ではないかと直感したのです。「空っぽは生きる基盤になるのではないか」と。私たちはどんなに忙しくても「空っぽである自分」の時間を確保する必要がある。だから私は本を読む時間を大切にし、学長時代の学長室は古本屋状態でした(笑)。このゼロないし「空っぽ」を大切にすることで、本を読む時間を確保できるのではないかと思っています。

三宅:日本人は真ん中の空虚が好きという話は、ヨーロッパの思想や日本の皇居を題材に説明することがあります。今はSNSで個人を発信し続けなければいけない、就職でも一貫性のあるキャリアの方が面接に受かりやすいなど、ずっと同じ自分でなければいけないという枠組みに居心地の悪さを感じるのは当然かとも思います。現代の社会の枠組みは西洋的ですが、精神性は仏教的で噛み合わないのかもしれません。
曖昧は欠点ではなく美質。咀嚼力が日本文化の特長
入澤:三宅さんの本でも触れていましたが、明治時代に西洋の価値観が強力に入ってきて、それがいつの間にか日本のスタンダードになりました。日本人がどう生きるのかを議論すると、西洋の価値観に軸足を置くのか、それとも日本古来の伝統文化を大切にするのかで噛み合わないことがあります。
三宅:西洋的なものと日本的なものを両立させるのはしんどいです。けれども古典を読んでいると、日本人は「曖昧」が得意だと感じていて、それも生き方の一つだと思っています。
入澤:そうですね。「曖昧」は西洋的観点からは欠点に見えるかもしれないけど、私は日本文化の美質、優れた点であると思っていて、むしろ世界に発信すべきだと考えています。
三宅:古典文学では政治は漢文、和歌や物語はひらがなを使用しています。公の場と気持ちを表現するときの言葉遣いの違いは、「分裂して良くない」「使い分けられて便利」の両方の考え方ができます。それこそ、仕事も生活も同じ人格で全身全霊となると、私自身は自分に合わないような気がして、半身くらいが好きだと思うんですよね。

入澤:これまでは物事をクリアにすべきという価値観が強かったけど、実は私もそうじゃないと思っています。よくよく考えてみたら仏教も外来思想だったわけで、明治には西洋文化も取り入れた。日本人は古来より外のものを上手く咀嚼してきたのです。その咀嚼力が日本文化の大きな特質の一つだと考えています。
三宅:中国語や仏教が伝来してきたら、普通はそのまま取り入れるのですが、日本では、音を表す表音文字と意味を表す表意文字を使うことで日本語が生まれました。なぜかカスタマイズしたくなるというのは不思議ですよね。

入澤:海外の人から見ると、漢字やひらがな、カタカナなどの複数の文字を自然と操る日本人は語学の天才に映るようです。私たちは上手く案配できる資質を活かし、これまでのガンバリズムとは違う価値観を生み出せると思っています。
三宅:曖昧に似た言葉に「なあなあ」があります。悪いイメージを持ちますが、例えば人間関係で問題が生じたとき、実は時間しか解決してくれるものがなく、決めつけずに関係性をつくることが良いとも思うわけです。日本語のルールは不明瞭で悪い側面がある一方、いい側面もあると発信することが今の時代では大切だと考えています。

言葉は一番使いやすく、慣れ親しんできた道具
入澤:三宅さんのお仕事の「読む・書く・語る」はすべて言葉ですよね。仏教では身体行為、言語行為、心の行為を三業と言い、人の行為を3つに分類しています。心で思い浮かべ、言葉で考え、身体を動かす。心と身体の間に言葉を置き、とても重要視する一方で、深い真実は言葉にすることができないという考えもあります。三宅さんは言葉について、どのような想いを持っていますか。
三宅:私には言葉が一番合っているように思うんです。音楽や絵、演劇のようにボディランゲージの方が表現しやすいなど、人によってそれぞれ異なりますが、私にとっては読むことも書くことも一番楽。身近で使いやすい、生まれ持って慣れ親しんできた道具という感覚に近いかもしれません。
入澤:学生のみなさんの中には、卒業論文を書くことが難しいと悩んでいる人が多いと思います。そのとき、何を心がけたらいいのか、最後に実践的なアドバイスをいただけませんか。
三宅:先ほど入澤さんは、深い真実は言葉にすることができないとおっしゃっていました。そのとおり、言葉では全部をそのまま表現できないのです。私は大学時代、小説家の小川洋子さんの講演で「自分がどれだけ言葉を尽くして、ある人を好きだと書いても尾崎豊の『I LOVE YOU』には勝てない」という話を聴きました。音楽の才能のない私は、自分の考えていること、感じていることを言葉にするとき、まずは細かく区切ることから始めます。
また、相手と自分の持っている情報の差を考えることも重要です。自分の中で上手く言語化できても、説明が少なすぎて伝わらないこともあります。「言語化」と「伝える」の両方を意識したらいいと思います。


