校友から学ぶ 102号

校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第102号 「親鸞聖人の他力について」

2025年度「第2回龍谷大学心の講座」 2025年7月26日(土)開催より

2026年3月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです

行信教校校長
天岸 淨圓

1949年大阪市生まれ、1972年龍谷大学文学部卒業。
本願寺派司教、本願寺派布教使、行信教校校長、浄土真宗本願寺派西光寺住職。
『御文章ひらがな版を読む』
『無明の酔いをさます阿弥陀仏の薬』など多数執筆

すべての人に開かれた宗教的自由と平等の夜明け
親鸞聖人が歩まれた道の根幹には、師である法然聖人が打ち立てた日本の仏教史上類を見ない壮大な転換点がありました。法然聖人が何よりも大切にされたのは、宗教における「自由性」と「平等性」です。それは、特定の身分や特別な修行ができる者だけが救われるということではなく、いかなる立場にある人であっても、自分自身の主体的な心で依り所にできる教えを確立することでした。
科学的意識や基本的人権といった概念が一般に広まっていなかった時代に、法然聖人は「誰もがその人らしく救われていく道」を見出しました。この確信こそが、「他力」という言葉で表現される、すべての人を温かく迎え入れる仏教の真髄となったのです。

「共に集う空間」が象徴する調和の精神
浄土真宗の寺院には、仏様を仰ぐ「内陣」とともに、私たちが集い、座って教えを聞くための「下陣(げじん)」という広い空間が設けられています。これは、寺院が限られた人のための場所ではなく、誰もが自らの意思で歩み寄り、共に教えに耳を傾ける場所であることを表しています。
法然聖人は、性別や社会的境遇、あるいは縁の深浅によって救いに差が生じることに根源的な光を当て、老若男女、貧しい人々や縁の薄い人々も、「誰もが等しく依り所にできる宗教」として形を整えられました。お寺に行けば誰もが座れる場所があるという事実は、そのまま仏教がすべての人に対して「どうぞこちらへ」と開かれている姿勢を表しているのです。

「皆どうぞ」という無条件の大きな招き
法然聖人が唱えた「他力」の思想は、従来の仏教が「善いことをし、悪いことを慎む」という、いわば「できるかできないか」という条件が伴う「自力」(自己努力)の道であったのに対し、「皆どうぞ」という無条件の受け入れを意味します。
自らの力で何とかしようとする努力も尊いものですが、法然聖人が見出した「他力」の道は、そうした努力の有無に関わらず、すべての存在をそのまま受け入れようとする大きな願いに基づいています。

慈悲に基づく確かな選択としての「本願」
法然聖人の教えの中で最も力強い概念の一つが、阿弥陀仏の「選択本願(せんじゃくほんがん)」です。これは、仏が「他力」という分け隔てのない、最も広く救いをもたらす道を選び取られたことを意味します。仏は、一部の人だけが歩める険しい道を選び捨てて、誰もが安心して共に歩める平坦で広い道こそを、私たちのために用意してくださったのです。
この選択によって、仏教は初めて一般大衆一人ひとりの手元に届くものとなり、真の意味で「開かれた宗教」として浄土宗が確立されました。

「お任せください」という呼びかけに応える心

親鸞聖人は、この法然聖人が確立した他力の純粋性をさらに深く突き詰められました。親鸞聖人が説かれた「他力の信心」とは、私たちが仏をどう信じるかという自力的な決意ではなく、仏の側からの「私に任せなさい」という呼びかけを、そのまま受け入れたときに成り立つ心です。念仏を称えることもまた、「助けてほしい」という願い以上に、仏の呼びかけに対する「お任せします」という感謝の応答として位置づけられました。すべてを仏の願いに委ねることで、人は自らの力みから解放され、真に自由な境地へと導かれていくのです。

「慈悲」の光に照らされて見出される「救い」

親鸞聖人が到達された「救い」の境地とは、仏という尊い依り所に巡り合うことで、自分自身の真実の姿を穏やかに自覚していくのです。仏の教えの本質である「慈悲」とは、他者を慈しみ、その苦しみを我がこととして受け止めようとする、どこまでも深い願いです。
阿弥陀仏をよりどころにして「慈悲」を心掛けると、自身の「無慈悲性」に気づくのです。その時に初めて「凡夫」という言葉が実感されます。そして自分を顧みれば、どんな生き方をしているかの自覚や恥じらいに気づくことが、そっと生き方を変えてくれる力になるのではないでしょうか。信仰の平等性と自由性を「他力」と表現した法然聖人、さらには阿弥陀仏の純粋性を徹底的に明らかにしようとしたのが親鸞聖人の「他力」という言葉の使い方であったのです。

2026(令和8)年3月15日発行