校友から学ぶ 73号

校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第73号 自分を忘れて他の人に尽くす

天台宗 那智山青岸渡寺住職
高木 亮享

高木亮享(たかぎ・りょうきょう)=38年(昭和13)生まれ。
比叡山高校から龍谷大学文学部史学科に進み、61年(昭和36)卒業。62年に青岸渡寺へ。 84年(昭和59)に同寺住職に就任。昨年まで12年間にわたり天台宗宗会議員をつとめ、現在は西国三十三札所会会長、熊野三山協議会副会長、那智勝浦町の補陀洛山寺住職も兼ねる。副住職の高木亮英さんは72年(昭和47)卒の法学部1期生でもある

まず、東日本大震災でお亡くなりになったかたがたに対して慎んでお悔やみ申し上げると共に、1日も早い復興をお祈りいたします。当寺でもいち早く参拝者に義援金の呼びかけをしておりますが、一人の仏教者として、被災された人々の苦悩は、どれほど大きくて深いものかと案じております。龍大出身のお坊さんや学生さんたちが、現地でさまざまな支援活動をされていることを知り、仏教を建学の精神とする母校らしい動きであると、意を強くしている次第です。
私は龍谷大学では文学部史学科に所属し、指導教授は仏教・真宗史の故・宮崎圓遵(えんじゅん)先生でした。下宿さきは同じ天台宗の妙法院(京都市東山区)で、門跡さんの付き人をしながら、大学に通わせていただいたことを、今も懐かしく思い出します。

「末法」と熊野詣

ところで私どもの青岸渡寺のルーツは、4世紀の仁徳帝時代にさかのぼります。インドから熊野に漂着した裸形(らぎょう)上人が、那智の大滝で修行をし、観世音菩薩を感得したことに始まります。
その200年後、大和の生仏(しょうぶつ)上人が来山し、3mの如意輪観音像を彫られ、裸形上人が感得して造仏した小さな観音像を体内に納められ、推古天皇の勅願で建立されたーーこれが青岸渡寺のご本尊の縁起です。
当山が世の注目を浴びるようになるのは11世紀後半、平安時代末期です。日本では仏教の歴史観により、「末法」の時代に入るとされました。時の権力は貴族から武士への移行期で、戦乱と天変地異が相次いで起こり、人々は不安におののきました。「末法」を身をもって実感させられたのです。
こうした中、阿弥陀如来を教主とした浄土信仰が高まります。天皇や貴族をはじめ、人々はこぞって来世(極楽浄土)での救いを求めて、熊野三山に参詣するようになります。三山とは熊野那智大社(青岸渡寺)と熊野本宮大社、新宮速玉大社です。
当時は、いわゆる”神仏混交”の時代でしたから、本宮の本地仏は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は観音菩薩です。人々は阿弥陀如来に来世、薬師如来と観音菩薩にこの世での願いを託そうと、熊野詣(もうで)にでかけました。

04年、世界遺産に

このような熊野三山の信仰は、1千年以上の長きにわたって、人々の心を惹きつけてきました。平安末期から室町時代には「蟻の熊野詣」と称されるほど、多数の参拝者が訪れるようになります。04年(平成16)、「紀伊山地の霊場と参詣道」として、ユネスコの世界遺産に登録されました。それは仏教信仰の道、人々のあつい祈りが込められた道だったからでした。(掲載記事は2011年8月に取材したものです。)

2011年(平成23)9月15日 発行