校友から学ぶ 81号

校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第81号 「大慈大悲」観音さまの心で人生を歩む

2015年10月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです

真言宗泉涌寺派宗務総長 総本山御寺泉涌寺寺務長
藤田 浩哉

藤田浩哉(ふじたこうさい)70年文学部仏教学科、翌年に高野山専修学院を卒業。
真言宗泉涌寺派主事、泉涌寺派宗会議員、06年に「御寺泉涌寺を守る会」事務局長、08年に真言宗泉涌寺派宗務総長、総本山御寺泉涌寺寺務長に就任。全日本仏教会代議員、京都古文化財保存協会理事、龍谷大学校友会京都市支部副代表幹事。今熊野観音寺住職

観音さまの信仰

泉涌寺(せんにゅうじ)には楊貴妃観音(重文)という、とても美しい観音さまがおられます。中国の安禄山の戦いで亡くなった楊貴妃の菩提を弔うために、玄宗皇帝がつくらせた観音さまです。この観音さまは今から800年ほど前に、泉涌寺開山の月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)さんのお弟子の湛海(たんかい)さんが、中国・南宋から請来されたものです。
私は幼いころからこの楊貴妃観音さまに接してきました。学校への行き帰りに、「行ってきます。ただいま」と挨拶し、この観音さまと共に大きくなったという思いが強くあります。
観音さまの信仰は、『観音経』にもとづいています。中でも『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』がもっともよく知られています。ここには「もろもろの苦悩を受けるとき、この観世音菩薩の名を一心に称えたなら、観世音菩薩はその声を観(かん)じ、皆に完全な悟(さと)りを得させる」とあります。また観音さまは「七難即滅(しちなんそくめつ)」、つまり人々のさまざまな苦難を、たちまちに消滅させる仏さまです。観音さまはインドで誕生し、中国や朝鮮半島を経て、日本に伝わりましたが、とくに日本では庶民信仰の代表的な仏さまとして花ひらきました。

楊貴妃の菩提を弔うために玄宗皇帝がつくらせた観音様

ではどうして日本で庶民信仰の中心的な存在となり得たか、です。それには、西国巡礼の果たした役割が大きいと思われます。昔からよく「西国巡礼、四国遍路」と言われますが、四国遍路より、33ヶ所の観音霊場をめぐる西国巡礼のほうが歴史が古く、もう3年ほどすれば千三百年を迎えます。 
「33」というのは、観音さまが変化(へんげ)して人々を救う33のお姿になぞらえたものです。この西国巡礼のはじまりは、長谷寺の徳道(とくどう)上人によるものです。徳道上人がお亡くなりになって、閻魔(えんま)大王のもとに行かれた。しかし、閻魔大王から「お前はまだここに来るのは早い。生きかえって33の霊験あらたかな観音さますべてを巡礼せよ」と命じられました。これが8世紀初頭にはじまった西国巡礼の由来だと言われます。しかし、当時は今ほどの巡礼のにぎわいはありませんでした。
その270年後のことです。熊野の那智山に参籠(さんろう)された花山(かざん)法皇が夢の中で熊野権現から、33ヶ所の霊場を再興するようにとの託宣をうけられ、数人のお坊さんと共に33ヶ所を巡礼されたことから、人々がこぞってお参りするようになったと伝えられています。とくに江戸時代に入って伊勢参りと西国巡礼には通行手形が発行され、大ぜいの人々がお参りするようになった。これが観音さまの庶民信仰を広げた大きな要因だと思います。

ともにわかち合う


観音さまは「大慈大悲(だいじだいひ)の仏さま」です。「慈悲」という仏教語には深い意味が込められていますが、わかりやすく表現すると「尽きることのない無限の愛」でしょうか。「慈」という言葉は、他の人に利益(りやく)と安楽を与えるいつくしみの心です。「悲」は人の苦難に同情して、これを救済しようとする思いやりの心です。さきほども触れましたが、どのような境遇のもとへでも、どんな地の果てまでも33の姿に身を変えられてお救いくださるのが、観音さまです。この観音さまのお心をひとことで言えば「慈悲の心」でしょうか。そして観音さまからいただいたご利益は、自分だけの利益とせず、今度は自分が観音さまになり代わって他の人々に利益をわけ与える、すべての人々が共に手をとり合ってご利益をわかち合う――これが観音さまの大いなる慈悲の教えです。

仏殿(重要文化財)と舎利殿(左奥)

阪神淡路大震災やJR福知山線の列車脱線事故、最近では東北大震災など、悲しい出来事が相次いで起こっています。こうしたとき私たちはいったい何ができるのでしょうか。やはり、私たち一人ひとりが「観音さまの心」でもって対処していくということでしょうね。私たち一人ひとりが「観音さまの心」をもって人生を歩むことこそが、真に安穏な世の中に導いていくのではないかと考えております。

龍Ronが聞く「仏教に学ぶ」
泉涌寺(せんにゅうじ)はなぜ皇室ゆかりのお寺なの?

月輪(がちりん)大師俊芿(しゅんじょう)律師によって開かれた泉涌寺は、もともと禅の教えを中心に、天台・真言・浄土の「四宗兼学(ししゅうけんがく)の道場」と呼ばれました。 
1242年(仁治3)、四条天皇が崩御されたとき、ご葬儀の導師をしたのが泉涌寺の長老でした。以来、幕末の孝明天皇に至るまで、ほとんどの天皇・皇族がたのご葬儀をおこない、ご尊牌(位牌)を安置してきたのが泉涌寺でした。「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ぶ由縁です。
大半の日本人には、いわゆる菩提寺がありますね。同じように皇族がたの菩提寺が泉涌寺です。天皇・皇族がたがお寺にお参りされることを「御視察(ごしさつ)」と申しますが、全国に数多くある寺院の中で、唯一「公式参拝」されるお寺が、泉涌寺なのです。

2015(平成27)年10月1日発行