校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第86号 「生き方としての仏教」
2018年3月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです
龍谷大学学長
入澤 崇
入澤 崇(いりさわ たかし)55年県広島県因島生まれ。龍谷大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。90年龍谷大学文学部仏教学科に着任。ベゼクリク石窟壁画の復元事業や数多くの仏教遺跡調査に従事。04年から5年間アフガニスタン仏教遺跡調査隊の隊長を務める。龍谷ミュージアム館長、文学部長を経て、17年4月に学長就任。専門は仏教文化学(アジア各地域における仏教の受容と変容を研究)。「仏教は果たして西にどこまで広まったか」といった国際的なテーマで研究を行なっており、学長として大学経営の第一線で活躍。仏教の教えである利他の精神を育む教育の推進を第一に掲げる。広島県尾道市因島善行寺住職。
昨年、私にとって興味深い出来事がありました。障がいのある学生と彼らを支援する学生が、一緒にシンポジウムを開いたときのことでした。ある女子学生が、聴覚障がいのある学生のために授業に出て、ノートテイクをしている。これは、大変な作業なのです。で、その女子学生が「ノートテイクは楽しい」と発言しました。さらに彼女は意気込むことなく、「何かの役に立てることが嬉しい。みなさんも一緒にやりませんか」と、ごく自然に会場に声をかけていました。私はその言葉に彼女は龍谷大学の建学の精神を体現していると胸をうたれました。
「如実知見」という教え
私が「仏教の思想」という、1年生の必修科目を担当していたとき、最初の授業で黒板に「如実知見(にょじつちけん)」と書くことにしていました。もの事をあるがままに見るというのが、「如実知見」です。この言葉を、知識として憶えるのではなく、この言葉が指し示す内容、ものの見方を知ってほしいと学生たちに伝えました。
このように仏教は、もの事をあるがままに見ることを説きますが、逆に言えば、私たちはあるがままに見ていないのだと。私たちは先入観、偏見といった色メガネを通して、もの事を見ているという事実がある。例えばイスラムについてたずねると、テロを起こすこわい宗教だと、異口同音に答えます。それこそ先入観、偏見でしか見ていない。
次に自分の身のまわりの人間関係にあてはめると、何かギクシャクすることが多いと言います。原因は相手に対する先入観や、周囲の噂によるものが多い。そういうことが日常的に多発しています。だから、あるがままに見ることによって解決される問題が、いくつもあるのです。
では、どのようにすれば「あるがままに見る」ことができるのでしょうか。私たちにできることは、まず事実を知っていくことです。例えば人間。私たちは、死すべき存在です。誰もが平等に「いのち」が尽き、死を迎えていく。この生死のレベルでもの事を見るのです。死というと、誰もが遠ざけますね。でも、その事実から出発して、自分自身やもの事を見ていく。生と死は、言うなれば紙の表と裏です。表だけの紙など、どこを探してもありません。なのに私たちは、表だけしか見ていない。人生のありようを正しく認識できていない。だから、自分が一人で生きているように錯覚して、周囲の多くの支えがあってこそ生きているという事実すら見えないのです。
本来の仏教の役割こそ
自己と他者ということを考えたとき、他者に私は支えられている、そして自らが他者に貢献する――そういう生き方を、深く教えてくれるのが、仏教です。
先日、ある大手電機メーカーの社長さんと話す機会がありました。ITやAI(人工知能)など、いまは科学技術が加速度的に進化している。社会が大きく変動しようとしていることを考えたとき、心の領域、そしてものの見方が非常に重要になってくると言われました。仏教が本来、はたさなければならない役割が、そこにあります。
仏教やお寺と言うと、多くの人は葬式や年忌法要などの習俗としての仏教を連想します。しかし、人間が生きるうえで真に大切なものは何かということを追い求める「生き方としての仏教」――これこそ、龍谷大学が発信していかなければならないものだと考えています。(談)
2018(平成30)年3月15日発行