校友から学ぶ 89号

校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第89号 笑いながら学ぶ

2019年9月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです

大阪大学招聘教授
高島 幸次

高島幸次(たかしま・こうじ) 49年大阪市生まれ。74年龍谷大学大学院文学研究科(国史学専攻)修了。近江地方史・天神信仰史を専攻。夙川学院短期大学教授・追手門学院大学客員教授・本願寺史料研究所客員研究員などを経て、現在、大阪天満宮文化研究所員。NPO上方落語支援の会・一般社団法人おしてるなにわの理事。著書に『大阪の神さん仏さん』(釈徹宗と共著、140B)、『奇想天外だから史実―天神伝承を読み解く―』(大阪大学出版会)、『上方落語史観』(140B)、『日本人にとって聖地とは何か』(内田樹・釈徹宗・茂木健一郎・植島啓司と共著、東京書籍)など。

イロモン学長の出演

去る五月二十五日、大阪の落語定席「天満天神繁昌亭」に入澤崇学長が出演されました(もちろん、落語家としてではありません)。
繁昌亭では、毎月二十五日の夜に「天神寄席」と銘打ったテーマ落語会を開き、私も企画のお手伝いをしています。そこで龍大創立三八〇周年を機に、五月のテーマを「仏教・落語・大学」とし、落語の合間に行われる鼎談のゲストに出演をお願いしたのです。
結果、繁昌亭には、学長の名が色物(イロモン)として掲げられました。落語家は黒字、他の出演者は赤字で書かれるため、後者を色物と呼びます。
当日は、仏教ネタの落語五席の合間に、学長と桂春団治師匠と私とで鼎談を行いました。落語の源流は、僧侶のお説教ですから、龍大学長と繁昌亭は相性がいいようです。

天満天神繁昌亭のまねき看板
落語『宗論』に学ぶ

学長は、当日に口演された『宗論』について、自論を展開されました。
ちなみに『宗論』とは、真宗門徒の父親と、キリスト教徒の息子が交わすハチャメチャな対話が面白い噺です。
学長は、この噺には現代の仏教界が陥っている閉塞感を打破するヒントが隠されていると看破されました。
この親子は、自らの信仰の優位を熱く語るのですが、その固執しすぎる姿勢が笑えるのです。世の宗教者たちも自他の違いを笑い飛ばせるくらいの度量を持たねばということでしょうか。

落語『餅屋問答』に学ぶ

私は、この日の落語では『餅屋問答』が好きです。まずはあらすじを。
全国行脚の修行僧が、ある寺の住職に問答を乞う。事情あって村の餅屋が住職になりすまして応対するが、何を問われても聞こえないふり。修行僧は、「住職は無言の行」だと思い込み、ジェスチャー問答に切り替える。
修行僧は、両手の指で小さな輪を作り胸にあて「師の心中は?」と問う。偽住職は、両手で大きな輪を作り「大海の如し!」と答える(これは修行僧の誤った理解でしかないのだが)。次に修行僧は両手の指十本を突き出し「十方世界は?」と問う。偽住職は指五本で「五戒にて保つ!」と答える(これも誤解)。次に修行僧は指三本で「弥陀の三尊は?」と問う。偽住職は人差し指を目にあて「目の下にあり!」と答える(これも誤解)。
ここで修行僧は問答に負けたと退散する。寺の小僧が偽住職に尋ねると、「自分が餅屋であることが見抜かれてた」と怒っている。修行僧が小さな輪で「お前とこの鏡餅はこんなに小さいだろう?」とけなしよったから、大きな輪で「これくらい大きいわい!」と言ってやった。「十個で何ぼや」と聞きよるから「五百や」って答えた。「三百にならんか?」と値切りよったから「アッカンベェー」してやった、と説明したのだ。

左から高島幸次さん、入澤崇学長、桂春団治師匠
落語『鼓ヶ滝』に学ばない

それを説明するために、落語『鼓ヶ滝』にも触れさせてください。
歌人の西行が、摂津の鼓ヶ滝で歌を詠む。その夜に泊まった家で歌を披露すると、同家の爺・婆や孫娘にみごとに添削されてしまうが、最後にこの三名は「和歌三神」だったと明かされる。
三名による添削が興味深い噺ですが、それはさておき、私は「和歌三神」だったというオチが気に入らない。片田舎の素人に添削されたのでは西行の名折れだとでもいうのでしょうか。

天満天神繁昌亭
「誰から」ではなく「何を」

私は、あの餅屋が、実は阿弥陀の化身だったというようなオチでないことが気に入っています。相手が神仏であろうが餅屋であろうが、修行僧は学ぶ力を持っていたのです。
そうなんです。「誰から学ぶ」かではなく、「何を学ぶ」かが大切なんです。教える側の職業や肩書ではなく、学ぶ側の力が問われるのです。
そこに気づけば、このコラムからも学んでもらえるかな・・・。

2019(令和元)年9月30日発行