校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第95号 聖徳太子と仏教の教え
2022年9月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです
聖徳宗第7代管長 法隆寺第130世住職
古谷 正覚
48年大阪市生まれ。71年文学部卒業。高野山大学大学院修士課程中退。法隆寺執事、執事長を歴任。20年より現職。
法隆寺では二一年四月に聖徳太子の千四百年御忌法要を行いました。
聖徳太子は西暦五七四年に生まれ、同六二二年二月二十二日に薨去(こうきょ)されました。その時の様子が記された「釈迦三尊像光背銘文」を要約しますと、前年十二月に聖徳太子の母、間人皇后(はしひとこうごう)がこの世を去られ、翌年一月二十二日には聖徳太子が病で床につかれました。
王后王子諸臣が共に発願して聖徳太子等身大の釈迦如来を作り、その願力によって太子の病気を治し寿命を延ばすことを願われました。仏教を紹隆し、共に彼岸に赴き六道の苦縁を脱することができ、極楽往生し悟りを得ることを願い、最後に司馬の鞍造りの止利仏師によって造られたと記されています。
聖徳太子の名前は最も古い記録では、慶雲三年(七〇六)、法起寺の塔の露盤に「上宮太子聖徳皇(じょうぐうたいししょうとくおう)」という銘が刻まれています。これが聖徳太子という名前の最初だといわれており、その後一般的になったのは天平勝宝年間(七五〇)頃と言われています。それまでは前述の釈迦三尊像の光背銘文に「上宮法皇(じょうぐうほうおう)」、薬師如来像の光背銘文には「東宮聖王(ひつぎのみやじょうおう)」という名前が記されており、『日本書紀』では「厩戸皇子」「厩戸豊聡耳太子(うまやどのとよとみみのみこ)」などの名前で呼ばれていたと思われます。
朝鮮半島との外交方針、国内の政治、皇位継承問題などで豪族同士の争いが絶えない時代でした。穴穂部皇子が殺害され、物部一族が滅亡し、崇峻天皇が暗殺されるという、そういう悲惨な出来事が相次いだ時代です。このような時代に聖徳太子は平和な世の中をつくりたいと考え、その実現のために仏教を広めたいと考えました。
五九三年、推古天皇が即位し聖徳太子が摂政になり、五九四年、『日本書紀』には推古天皇が三宝興隆の詔を発せられたとあります。三宝とは仏、法、僧を指します。仏は正に覚者、悟りをひらいたお釈迦様のことであり、法は人々が最も尊んで信ずべき真理を指します。僧は個人の僧ではなく和合衆という意味で、仏様の教えを実現することを目的として修業をするお坊さんの集団を指します。この三つが揃って初めて仏法興隆、そしてその仏教の具体的な建物がお寺となるわけです。聖徳太子も四天王寺、法隆寺、中宮寺など、次々とお寺を建て、鎌倉時代の『聖徳太子伝暦』には建立した寺は四十六にのぼると書かれています。
五九六年、道後温泉を訪れた聖徳太子らが建立したとされる『伊予湯岡碑文』には、「日・月は上に出て、すべての人を平等に照らす」とあります。神の温泉は下から出てきて誰にでも公平に恩恵を与える。太陽はすべてのものを平等に照らして偏ったところのない寿国という理想の国・極楽浄土が詠まれていて、平等で平和な社会を望んでいた聖徳太子の思い、理想の社会が記されています。
このような理想の社会を構築するために、聖徳太子は六〇四年に十七条の憲法を定めました。
第一条には「和を以て貴しと爲す」とあります。一般的にはこの言葉だけがよく知られていますが、和には調和・温和・和睦・平和という意味があり、ここでは協調し仲良くするという和合の重要性が示されていると思われます。そして上の者が和らいで下の者と仲良く睦まじく親しくし、何事があっても話し合えば道は自然に通じるということです。
第二条には「篤く三宝を敬え」とあります。全ての時代、全ての人がこの三宝を貴ぶべきで、性善説の立場に立って教育を説き、三宝の重要性を説いています。
第九条では信の重要性を説いています。信は義の根本で、信があるときは何事も成就し、信がなければすべての事柄が失敗するとしています。
聖徳太子は『三経義疏(さんきょうぎしょ)』を制作し仏教信仰への熱い思いを残しています。また次の三人には自身の思いを残しています。妻の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)には『天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)』の中で「世間は空しく仏の教えが真実であり大切だ」という言葉を残しています。甥にあたる田村皇子には『大安寺伽藍縁起并流記資財帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』に、「財物は滅びやすいが、三宝、仏教の教えは絶えることがない」と残し伝えています。子の山背大兄王には、『七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)』の二句、「諸々の悪をなすことなかれ、諸々の善を奉行せよ」と伝えています。
仏教には十悪と呼ばれる、身体の三悪(殺生、偸盗(ちゅうとう)、邪淫)、口の四悪(妄語、綺語(きご)、悪口(あっく)、両舌)、心の三悪(貪欲、瞋しん恚い、愚ぐ癡ち)がありますが、すべての悪は自己中心的な考え方から起こってくるものです。煩悩のもとは心の三悪で、最も強く戒められています。
このように聖徳太子は仏教の教えを国の拠りどころとして十七条の憲法を制定し、仏教への熱い思いから『三経義疏』を制作しました。仏の真実の教えを後世に伝えるこのような取り組みが聖徳太子信仰につながっていきます。聖徳太子の心を支えているものは仏教であり、仏の教えを実践する生活を送られたと考えます。それが今も受け継がれているのです。
没後千四百年目を機に、聖徳太子の生涯と仏教について、皆さまにもお考えいただければと思います。
2022(令和4)年9月30日発行