校友から学ぶ-仏教について- 校友会報「仏教に学ぶ」
第99号 浄土の慈悲
2024年9月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです
龍谷大学客員教授
真行寺住職
貴島 信行
51年大阪府生まれ。龍谷大学大学院修士課程修了。龍谷大学講師、中央仏教学院講師、龍谷大学大学院実践真宗学研究科特任教授を経て、現在 龍谷大学客員教授。本願寺派布教使。真行寺住職。専門分野は真宗学、真宗伝道学。
浄土の慈悲」は、『歎異抄』第四条に親鸞聖人の法語として取り上げられています。そこでは「慈悲」「大慈大悲心」「大慈悲心」など同類の語が多く出ており、念仏の救いと慈悲の関係性が述べられています。結論からいえば、凡夫はいうに及ばず聖者、菩薩が行ずる慈悲はすべて限定的であり不完全でしかなく、仏が行ずる大慈悲心のみが完全であり末通った救いであるとされます。そして凡夫のみならず聖者、菩薩においてさえ困難な自力の在り方をひるがえし、大悲の他力に帰して念仏申すべきことを勧められるのです。
人間を救済する道を偽りなく誤りなく他者に語り伝え、かつ仏と同じさとりの境界へと教え導くことができるのは仏でしかありません。大慈大悲の実践は仏のみがなしうる仕事です。ですから私たちが他者に対して本願の救いを伝えようとするとき、それが誠実であればあるほど、かえって自らの不完全さや無力さを思い知る結果を招いてしまいます。親鸞聖人の生涯において、他の人々に弥陀大悲を伝えていくことは大きなテーマでした。『和讃』には「仏慧功徳をほめしめて 十方の有縁にきかしめん」とよろこびをもって讃えられる一方で、「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ」と悲しみをもって慚愧されるのは、苦悩する人々に対し仏の本願を伝えようと他者に向き合い続けた上での述懐であったと考えられます。妻である恵心尼公の書状では、念仏弾圧を蒙り越後の地で流罪生活を送り、罪が赦免されて後、42歳頃に家族をともなって関東に下向される途中、飢饉に苦しむ人々に出会って「衆生利益のため」に三部経千部読誦を発願し試みられたこと、また門弟に宛てた書状によれば、84歳の頃に本願の教えにあらざる異義を主張したわが子善鸞を義絶するという悲痛な出来事を経験されたことがわかります。私たちは苦悩する人々を目前にすれば何とか力になりたいと思うことは人として自然の感情でしょう。しかしいざ関わろうとすると事はそう簡単ではありません。自分がいかに不完全きわまりないものであるか、互いに通じ合うことの困難性を思い知ることになります。人はこの世で自己が他の誰よりも愛おしいという我愛のこころ、自分の思い通りにしたいという自己中心の願望を持っています。思い通りにならない感情が抑えきれず、怒りとなり愚かしき言動と表れ、ときに相手を深く傷つけてしまうことにつながります。ことに近年は自我愛や自分ファースト的意識が次第につよまり、それが個人のレベルを越えて一方的な自国優先主義にまでに拡がっています。
浄土とは仏の智慧と慈悲が完成された世界です。智慧をさとることは仏の境界にとどまらずして、この濁りの世に生きる人間の無明煩悩を等しく照らし出し、大いなる慈悲心はその我執煩悩に苦しむ衆生を憐れみ慈愛の情を注ぎつつ、仏の人格にまで導き育むのです。その具体的なはたらきが光明の智慧であり、南無阿弥陀仏の大悲のよび声です。急ぐべきことは自分の愚かさを受け入れ、その身を救ってやまない大悲心にめざめることでしょう。親鸞聖人は信心の利益として「常行大悲の益」を示され、凡夫でありながら本願大悲によって人々を教化する仏の大事業に参画しうるよろこびを讃えられています。慈悲の実践は、浄土の慈悲によって生きる念仏者として、避けては通れない課題でもあるのです。
2024(令和6)年9月30日発行