校友クローズアップ  永松 真紀さん

2014年10月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです

校友クローズアップ

すべて日本に紹介する義務があると思いました

プロの添乗員でマサイ戦士の夫人
永松 真紀さん

(1988年 短期大学部仏教学科卒業)

校友会報79号(2014年10月発行)より

永松 真紀さん

高校2年のとき、テレビのクイズ番組に両親と共に出て優勝し、ご褒美が9日間のスイス旅行でした。このとき初めて海外に目が向きました。

短大の2年間はあっという間で、卒業後の進路に迷いましたが、とにかくもう一度海外へ行こうと思い、1ヶ月間ヨーロッパ6ヶ国の一人旅に出ました。この旅の中で、卒業後は海外ツアーの仕事がしたいと思い、福岡の添乗員派遣会社にご縁があり、添乗員の仕事につくことができたのです。

龍大時代、さだまさしさんの「風に立つライオン」という曲を聴いたときでした。その中で歌われているアフリカの大自然に、すごく惹かれたことがきっかけでした。

1989年(平成元年)5月、一人旅でケニアの空港に降り立ったのが初めてのアフリカでした。以降、たびたびケニアを訪れ、1996年(平成8年)にはケニアに移住し、アフリカ各国でガイドや撮影コーディネーターをするようになりました。

2000年(平成12年)には、山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』の主人公のモデルだといわれる故 小倉寛太郎さんが企画するアフリカツアーの添乗員の仕事をさせていただきました。このツアーの参加者は意識が高く、ケニアのエイズや教育問題など、次々に私に質問をされ、ケニアの大自然や野生動物を紹介すればいいと思っていた私は、大きな衝撃を受けました。以来、私はケニアの歴史や文化、人々の生活など良いところも悪いところも、すべて日本に紹介する義務があると思いました。

「エウノト」というマサイ族の戦士の人生最大の儀式を見学したときのことです。ひときわ目をひいたのが私の夫となるジャクソンでした。マサイの伝統の中で美しく生きる彼に、惹きつけられました。

しかし、マサイは全く違う世界の人。偶然の再会の後、首都ナイロビから車で約6時間の、彼が住むケニア西部のエナイボルクルム村に行きました。この地域の長老から、いきなり「マサイの戦士の嫁として受け入れる」と。日本人の私をマサイの社会が本当に受け入れてくれるのだろうかと不安はつのりましたが、私は人生で最大の決断を下しました。

広大な土地に多くの家畜と生きるマサイにとって、複数の妻と多くの家族で財産を管理していくのは理に適っています。私たちの場合は第一夫人、第二夫人がそれぞれの役割を果たしながら家族を、地域を支えていけることをとても幸せに思っています。

マサイの戦士の夫人として、またガイド、コーディネーターとして、アフリカ・ケニアの魅力と真実の姿を多くの人々に伝えていきたいと考えています。

花嫁の行列。左から3人目が永松さん
花嫁の行列。左から3人目が永松さん
日本での講演活動。左が夫のジャクソンさん 前へ校友クローズアップ一覧次へ
日本での講演活動。左が夫のジャクソンさん


永松 真紀(ながまつ まき)

1988年に短期大学部仏教学科を卒業し、福岡の添乗員派遣会社を経て1996年にケニアに移住。2005年にマサイ戦士の夫人に。2012年、夫の名前でジャクソン教育基金(MJEF)を立ち上げ、地域の子どもの未来のための教育支援活動を続けている。現在、夫と共にコミュニティーサポートや、マサイのスタディーツアー、日本での講演活動を行う。著書に『私の夫はマサイ戦士』(新潮社)など。