校友KIKOU 自分を失わず、相手の意見を許容し、許し許される生き方

校友KIKOU 宮城泰年師
校友KIKOU 宮城泰年師

宮城 泰年 師
本山修験宗総本山 聖護院門跡 ご門主

卒業年、卒業学部 1954年・文学部
所属サークル 写真部

学生時代の思い出

 中学時代は旧制平安中学校に通っていました。当時は中学の4年制が終了した後、新制高校の2年制に編入するのが通例でした。しかし、戦争の記憶が色濃く残る軍事教練であった中学時代、その頃からの脱却を図るとともに、中学時代とは異なる“大人な世界”である大学生への憧れから龍谷大学予科への進学することを決めました。1年間の予科生活でできた友人とは今でも交流が続いており、第15回龍谷賞を受賞した故久保勝文とは文通をする程の仲でした。

 1947年(昭和22年)3月に「学校教育法」が公布されたことにより、1949年(昭和24年)4月、新制龍谷大学として認可、文学部が開設されました。予科時代の友人たちが新制龍谷大学の一期生となる中、私は一期生で入学したにもかかわらず、在籍していた社会学科が肌に合わず、国文学科へ移籍したことで留年をして、二期生として卒業しました。

 国文学科の時の学生数は12人でした。その中で私だけが教職課程を取らず、卒業論文のテーマでもほかのみんなが源氏物語を勉強している中、一人だけ伊勢物語を選び、周りの人とは違ったことしていました。伊勢物語の原本が聖護院(ウチ)に有るので、宮様が聖護院に居られた頃に伊勢物語をどのように勉強されたかということが、さまざまな参考文献や学説を丹念に拾い上げていけばおのずと分かり、普通に調べ物をしている学生よりも研究テーマについて書くのがはかどるからです。論文の資料は宮様の付けた貼り紙なども一枚ずつ丁寧に写し取って400字詰めの原稿用紙50枚つづりを20冊以上に渡って写し取ったのですが、その資料も今はどこにあるのやら…。今思えばきちんと残しておけば良かったと思うばかりです。学問に対してそれほど熱意を持っている学生ではなかった、そんな学生時代でした(笑)。

 また、予科時代の思い出深い出来事といえば、浄土真宗の中の異分子として友人がたくさんできたことが挙げられます。その当時予科の学生のほとんどは貧しく、典座室に居る同郷の所や、北海道から来ている浄土真宗の学生のところに集まって、彼らの故郷からの仕送りで食いつないでいました。「典座室」というのは本館の阿弥陀様にお仕えする浄土真宗の子が集まる部屋で、そこで自然と友人ができていきました。

 ある時「お前はどこの寺出身者だ」という話になり、「山伏の寺、修験宗(修験道)の聖護院だ」と答えたところ「そうか、雑行雑修だな」と返されたのです。言われた当時は知識が無かったため「雑行雑修とは?」と不思議に思いながら、帰宅後父親に教えてもらったのですが、浄土真宗の子らのひたむきに阿弥陀信仰に打ち込んでいる世界から行ったら、まさにピュアな世界の中へ雑行の人間が入り込んでいくという図だったのではと考えます。ただ、信仰上はそのようなことを言っていましたが、予科時代は貧しく共同生活をするほかありませんので、人間関係においては完全に融和合体している状態だったと思います。「雑行雑修だな」と言われた異分子の私が、今日まで真宗の人間を集めて同窓会の幹事をしてきたのですから。貧しい中で互いに迷惑を掛け合い、秘密を共有し合い、楽しい学生生活を送っていた結果だと感じています。学問にはそれほど熱意を持てなかった私ですが、大学生活の中で得たものは幅広い世界の友人関係であったと思います。

“今”を生きる人たちに向けて

 あまり頑張りすぎないことが大切だと思います。今の時代、SNSなどのネットワークにおいて他人の意見が目に入りやすくなっています。その中で“自分というものは何なのか”をしっかりと握りしめていなければ生きていきにくい。いつの間にか流されて“自分”を失ってしまわないだろうか、そう感じています。

 自分の考えを発信していると反対の意見とぶつかることがあると思います。自分の考えを押し通す、主張するという行為はSNSが発展している今の時代とても危険なことではありますが、自分の思っていることを言わないということは自分を押し殺すということと同義なのです。1つの主張に対して反対意見があってもそれを決して許容しない、今の時代はそういった風潮であるように感じていますが、相手と違う意見主張と相対しても許容する、“許し許され”ゆとりを持つこと。“許す”ということは“敵を作らない”ということ。新自由主義の時代にはとても難しい事だと思いますが、自分を失わず、相手の意見も許容し、許し許される、そんなおおらかさを学んでいってほしいです。