2022年12月掲載
※所属・役職・記載内容等は掲載時期のものです
松浦 俊昭 師
律宗大本山 壬生寺 貫主 唐招提寺副執事長
卒業年:1992年、卒業学部:文了
律宗大本山 壬生寺についてはコチラから
学生時代の思い出
私は、文学部仏教学科に入学し、最初の2年間は深草学舎でお世話になりました。当時は地方からの入学者が多く、周りが京都のことを知らない学生ばかりでしたので、入学してすぐの頃に地方からの学生を引き連れて京都を案内したものです。その時は金閣寺や銀閣寺、清水寺など観光スポットを巡りました。当時は今ほどオーバーツーリズムと呼ばれるものが無かった時代なのでゆるゆるとした観光地巡りができました。
龍谷大学を卒業して思うこと
大学時代は人生で一番勉強した時期で、そして今でも続く友人関係を築いた時期でした。龍谷大学は、地元密着型の大学だからか、京都には龍大出身者が多く、京都でお店をされている校友がいるなど、京都に根ざす学生が多い印象を受けます。また、龍大出身者同士でオープンに話ができるのが龍谷大学の校風である気がします。
われわれが在籍していた当時、学生の多くは実家がお寺で跡を継ぐ予定の男子学生でした。仏教学科を選択する女学生は極めて少なく、居たとしても実家がお寺さんであることがほとんどでした。今は一般家庭出身の学生、特に女性が増えております。人気が出てくると、入学を希望する学生が増え、同時に偏差値も上がりました。龍谷大学に進学を希望する寺院徒弟の学生は、より高い学力を求められるようになったのではないでしょうか。
“今”を生きる人たちに向けて
コロナ禍で一番変わったことは、やはり“人との接触”です。その中でも著しい変化を遂げたのは家族ではないでしょうか。一家だんらんが無くなり、外で遊ぶ子供の姿も減り、一人部屋でゲームをして引きこもるという現象は近年増えてきていましたが、コロナ禍になってからはそこからさらにマスク着用によって相手の表情も読み取れなくなり、家族同士での集まりも断絶され、人とのつながりが失われました。これこそがコロナ禍における一番の弊害だと感じます。
“ご縁”というものがあるとするならば、そのご縁をつなぐ際に必要な“自分を知ってもらう”、“己をさらけ出す”という行為そのものがコロナ禍では難しくなってしまいました。コロナ禍でさまざまな困難に直面する中、自分の弱みを打ち明けられずため込んでしまい、鬱(うつ)になってしまった、そんな方も居られるでしょう。一方で、私の周りでもお店を経営されていて継続していく事が難しい状況になられた方もおられましたが、元気な方も居られます。その人たちの何が違ったかというと、やはり人とのつながりを絶たずにご縁を大事にされていたということです。まさにこれが生きていく上で必要不可欠なことだと感じます。
律宗の宗祖である鑑真和上縁の話の中にも、このことに通ずる事柄があります。鑑真和上は日本に来られる際、自身より先に弟子を渡日させようとしました。しかし弟子は師匠である鑑真和上と離れることを拒み、それを受けて鑑真和上は自らが日本へ赴くことを決められます。当時の船旅は生きてたどり着けるかも分からない非常に危険なもので、事実、鑑真和上は6回目の出航でやっと渡日することができました。弟子は渡日に反対しましたが、その時の鑑真和上は日本の古事を引用してこのように話されました。
「山川異域 風月同天 寄諸佛子 共結来縁」
(地域が異なっていても、唐の国であろうが和の国であろうが風や月は同じ空の下にある。仏縁のある人たちによって来るべき縁(えにし)を結びましょう)
多くの人とのつながりがあるということは、困った時に手を差し伸べて助けてくれる誰かが居るということで、その“人とのつながり”を絶つことは、自分を助けてくれる誰かとのつながりを絶ってしまっているのだと考えます。このコロナ禍において絶たれてしまった人とのつながりは、失われたものの中で一番大きなものだと思います。
世を憂いている方の中には現状を打開しようと一人で奮起している方も居られると思いますが、その際には“人に助けてもらう”ことも大事です。一人で解決できないことは必ずありますし、助けてくれる人は必ず居ます。優しい人というのは文字通り憂いを取り除いてくれる、他人を思い遣る事のできる人です。人とのご縁とつながりは切らず、むしろご縁を結んでいっていただきたいと思います。