明応の昔、綽如(しゃくにょ)上人様がこの寺を中心に、本願寺の念仏のみ教えを、もっと北陸の人々にも広めたいと云う、尊いお心からつくられた寺で、反古裏書(ほごうらがき)と云う古い書にも、そのため寺は、加賀の本願寺の全寺院は、「超勝寺の与力とする」、即ち「超勝寺の力になる様に」定められたのでした。誠に尊い使命を負うた(法燈が点ぜられた)寺がつくられたものです。文明の頃、蓮如上人様が吉崎御坊より、一時この寺に法難をさけられ、また加賀本蓮寺より迎えた内室の早世をあわれに思われ、上人は我が御子蓮周姫を、その後に入れられて寺の苦難を救われました。昭和の初年、壬生照弘様が住職となられるまでは、当寺は別格別院として本願寺御門主勝如上人様が、住職をご兼務下さいましたなど、開創以来、この寺の尊い使命伝持に本願寺は、お力添えを賜り、寺も門徒もその様な使命をもつ寺の護持には、格別の力を務めてきたのでした。
[福井] 壬生 照泰 ミブ ショウタイ
短期大学部 仏教科 1976年卒